散策ー白金台の美術館

今日は白金台にやってきました。 三田線を使ったのですが、三田線三田線と思っていたら何故だか間違えて三田へ行ってしまい、えらい遠回りする羽目に。

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うん、やっぱり暑さのせいでしょうね? 本日も快晴です。

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本日の目的地はこちらの美術館なんですが、グーグル先生のアドバイスに従って行ったらまんまと罠にはまってしまった様です。

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木漏れ日を拾ってみたつもり。

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はい、こちらが正面入り口です。

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こちらの美術館、撮影はOKなんですが、載せてもいいとは書いてなかったので自主規制を入れてあります。余計に駄目な気もしますが、見たかったら見に行ってね♡的な感じでお茶を濁しておきます。  という訳で、第一展示室にお住いのセクメトさん。

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カルナックのムト神殿に奉納されていた一柱で第18王朝期のものだそうです。

 

3D観光()で一度、訪問した事があるのですが、縮尺の都合上カットされているのか残念ながら沢山あるというセクメトさんの神像を見つける事はできませんでした。正面に見える二柱だけのようです。

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現地の様子(4D)が紹介されているブログを発つけましたので載せておきます。 

こちらをみると、セクメトさん並んでる広間があるようですが、3D観光にはそれらしき場所はありませんでした。

 

 

こちらは第二展示室。何だかとってもアートな感じがしますが、アートには興味がないのでよく分かりません。 

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お次は第三展示室。 

 

ででーん! 菩薩像!

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じゃじゃーん! 名前忘れた!

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どーん!ナントカの眷属!

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 ゲフンゲフン

 

 

こちらはリシュリュー枢機卿の庭園に飾られていたゼウス像だそうです。 

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リシュリューもこれを見ていたかと思うと、ちょっと胸がトキめいてしまうのですが、仏革の際に頭部が叩き割れれてしまったそうで、間接的に目が合ったとしてもボディの部分だけだそうです。チッ

 

 

 

ピカソには少しだけ興味があるので思わず撮影してしまいました。 

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 パブロピカソ、Pピカソ、ピーピカソ・・・暑いですね~

 

これですね。どんな文脈で、どんな主旨でこれを言ったのかに、ちょっとだけ興味があります。 たぶん、「アートってのはサ、表現の手段なんだよ♡」っていうくらいの軽い話だとは思うのですが。

 

今回はこれに行って来た訳なんですが、

 

エジプトの直立⇒ギリシアでS字化⇒ガンダーラにも影響という流れなんですよ~というお兄さんの解説を聞いてなるほど~と、ひとつお勉強になりました。これだけでは話の流れが見えなくて、なんのこっちゃ?という感じでしょうが、大丈夫です。私はばっちりですので問題ありません。

 

空があまりにも清々しかったのでつい撮影したくなってしまったのですが、ピーとか音が出てしまって、お兄さんに注意されてしまいました。  注意されて録画停止するところまで。 pic.twitter.com/Z8ZqINJJUo — Mazuna (@mazuna_gp) September 11, 2018

 

館内ではお静かに。 

 

 

維新後の肖像ー慶喜、勝

霞の会報に連載された記事をまとめた『話の吹きだまり』という本があります。出版は昭和六十二年と新しいのですが、著者の大河内富士子様は、慶喜の孫にあたる方で、維新後の内輪話の思い出を率直に綴っておいでです。

 

徳川誠男爵 「おやじは色々言いたい事があったろうに、何一つ言わずになくなった事を気の毒に思う」(p.18)

大河内富士子「もし本当のことをあれこれおっしゃったら、歴史がかわりましょう。それにしても近頃の人は自分の言いたいことを言いすぎますわ」(p.18)

 

おやじ、という呼び方は割とポピュラーで、他にも聞いたら「えッ!」て思うようなお家でもお使いになられている様です。

 

上のツイッター画像は、維新後の徳川家における慶喜の立場が察せられるお話です。勝の話が出ていますが、身分の低い出なのに座布団を頂戴している事、直接、話しかけたりした事を嫌がられたというお話の様です。時代ですね。

 

長勲の維新前後はデジタルコレクションで読むことができるのですが、こちらの吹きだまりは収録されていはいないようです。国会図書館では読むことができますので、ご興味のある方は是非一度、お手に取ってご覧になって見てください。

 

著者近影

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※スキャンすると本に折り目が付いてしまうので、携帯で間に合わせました。

 

観光ー小田原城②

小田原城案内図。

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天守閣を縦長で激写。

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こちらは本丸広場の常盤木門の二階、SAMURAI館で見る事のできる映像アトラクション『花征つ鎧』です。

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馬出門の方へ向かっています。  

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トボトボ

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脛をぶつけたら痛そうな角をしてます。

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トボトボ歩いていると

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飛行機雲が見えました。

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今時、飛行機雲くらい別に珍しくもないんでしょうが、なんとなく。

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馬出門の方から出ました。

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天守が見えます。

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再び朱の橋。

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こちらは駅前においてある案内図。駅からそんなに遠くありません。

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大MAP

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時間があれば石垣城の方へも行ってみたかったのですが、今回は入生田へ遊びに行った帰り道でしたので、残念ながら立ち寄る暇がありませんでした。

【公式】小田原城 難攻不落の城

 

えーとw何かが無かった事になっているような気がするんですが・・・と思いきや、歴史的事実として勝っちゃったんですね?あの戦いに。そして、これがその証拠!

たぶん、敗れて捕まっちゃった秀吉さんのご子孫たち、なんでしょうね! 

 

 

 

 

観光ー小田原城①

あれに見えるは小田原城です。 

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駅前の通りをまっすぐ歩いていくと天守が見えてくるので、迷子にならずにたどり着けそうです。

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 堀が見えてきました。

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二の丸東堀。 

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銅門まで100m、馬出門まで150m。馬はいなかったと思います(違うからw)

f:id:mazuna:20180901211713j:plain端まできました。f:id:mazuna:20180901211750j:plain

お堀が綺麗ですね。 

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ででーん 

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じゃじゃーん 

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ぐはッ 

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はい、広場です。f:id:mazuna:20180901211927j:plain

城門。 

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 天守。 なんかこじんまりとぼてっとした感じが可愛いです。

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この広場には御殿があったようですが、現在ではお猿さんが檻の中で飼育されているだけです。オミヤーゲ屋さんもあったような気がします。

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写真を撮りながら近づいていきます。

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石段のところから撮ったものですが、最上階まで結構近いですね。 

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中に展示してあった模型です。

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結構、埋め立ててあるんですね。朱の端もかかっていませんし。

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さて、天守にやってまいりました。小田原市が一望できますが、四百年程前には大軍勢にぐるりと取り囲まれていた訳ですね。f:id:mazuna:20180901212235j:plain

海側にもきっと軍船がずらりと。

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相模湾。 

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伊豆大島が見当たらない様です。 

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ずらり

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ぐるりと 

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取り囲まれて 

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今日も元気に 

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小田原評定 

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なんちゃって。 

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石垣山城は・・・ 

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こっちの方でしょうかね? 

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長いので二つに分割しました。 続きはまた明日にでも。

 

維新後の肖像ー関東大震

 九十五年前の今日、大正十二年(1923)九月一日、関東で震災がありました。その時の写真です。当時、お屋敷が弥生町(本郷区向ヶ岡弥生町)にあり、そこから神田方面に見えた大火災の様子が写っています。白黒なので分かりにくいですね。

 

 

 本郷キャンパス・浅野地区の解説 http://www.aru.u-tokyo.ac.jp/asano_panel.htm

 

 

同年十月頃。赤ん坊が頼子様、抱いてらっしゃるのは恐らく安子女王。 

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こちらは「十二月八日、須磨に来た節、望子撮影」とあります。

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この写真の裏書に「弥生町父上」とあることから、上の震災写真の撮影者が中央に映っている方、浅野長之と分かります。母上とあるのは隆興の母上で、朽木家からいらしたのぶ子様です。

 

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維新後の肖像ー浅野長勲

長勲公は、長之公の従兄弟にあたりますが、長之公は養嗣子でもありますので義父になります。私から見ると、曾祖母の義理の祖父にあたる方ですね。まぁ、殆ど関係ない感じですが、私のルーツの一部ではあります。

 

 

天保から昭和までが同時代史

長勲公は「最後の大名」として知られていますが、この方、天保の御生れなのですがなんと昭和までご存命でした。生没年は1842~1937でしょうか。

1842 天保13年 御生れの年です。

1854 嘉永07年 12歳頃。

1868 明治元年 26歳頃ですね。

1877 明治10年   35歳頃。

1894 明治27年 52歳頃。

1904 明治37年 62歳頃。

1914   大正03年 72歳頃。

1929   昭和04年    87歳頃。

1937   昭和12年 95歳頃。

こうしてズラりと並べてみると、天保の改革から開国、明治維新を経て、西南戦争日清戦争日露戦争第一次大戦世界恐慌を同時代史としてご覧になり、日中戦争の始まる年までこの世にご滞在なされていた訳ですから、私としては「最後の大名」というよりも、むしろこうした、公の生きた時代のスパンになにやら興味を惹かれます。何しろ、江戸と近代の両方を人生の一部としてお持ちなのですから。

 

 

 

曾祖母が後ろに立っています。お兄様の長武様もご一緒ですね。 

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あら?なんだかとっても小さく・・・

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熱海の別荘だそうです。長勲公が奥にいらっしゃいます。

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ちょっと小さすぎますねw

その内、もう少し見やすいサイズに直しておこうと思います。

 

米寿のお祝いとあります。なので昭和五年(1930)頃ですね。

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回想録

史料的な価値は分かりませんが、回想録をいくつか残されている様です。

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いずれも、国立国会図書館デジタルコレクション - 検索結果 で読むことができます。

 

 

 

 

維新後の肖像ー浅野長之

面識は御座いませんが、曾祖母のお父上になります。

1912年が明治45/大正元年になりますが、即位の礼は大正四年(1915)に行われています。 式部官と書いてしまいましたが、色々と歴任されているようでよく分かりません

式部官と記載のある写真を見ると、上の写真の頃より一層お若いですね。

曾祖母の御兄弟、お父上とそのお義父様です。曾祖母はもう嫁いだ後なのでこの写真には写っていません。右端の女性は長武様の奥様で安子女王と伺っております。前の女子は頼子様。後に水戸にお輿入れなさいます。

 

長之公の夫人、恭子様。大河内家からいらしてます。曾祖母のお母上ですね。 

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長之・恭子御夫妻、御一家。真ん中の女性が曾祖母です。

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一番左端の少年は大河内家をお継ぎになられた輝信様なのですが、この方が牡蠣を召しあがっていた私の曾祖母に「姉上、それは座頭の目にございまするぞ!」と冗談を言われたそうで、以来、曾祖母は牡蠣を召しあがることができなくなってしまったそうです。

 

恭子様。

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長之様。

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まだ他にもいくつかお写真はあるのですが、とりあえずはこの辺で。